「毎日新聞の元記事の転載」 ― 管理人
ここ数回のエントリーのきっかけとなった、今年1月13日付毎日新聞の元記事の転載を了解していただきました。
この記事は毎日新聞の記者ではなく外の方が書いているので、担当の岸さんがわざわざ執筆者に連絡をとって許諾をいただきました。毎日新聞のメール問い合わせ担当の方がいち早く対応してくれて、学芸部に連絡していただき、学芸部の岸さんが私に連絡をしてくれるという、大変素早く親切な対応でした。こういうところは同じメディアとして見習いたいところです。毎日新聞さんありがとうございます。
そして執筆者の佐藤さん、転載をご快諾いただき本当にありがとうございます。これを機に、是非「あやブロ」へも投稿していただけたら…と思います。
それでは元記事です。
◇ジャズ的メディアの模索
「メディアは(こそが)マッサージである」
前回(といっても去年のことだけれど)開高健を取り上げて1960年代のメディアについて若干触れた。だけど、60年代のメディアっていったら、テレビに触れないわけにはいかないだろう。今回は革新的だった60年代のテレビについて見てみたい。
それで、何から始めようと考えて思い出したのが冒頭に引いたマーシャル・マクルーハンの言葉だ。テレビメディアは触覚の延長として機能する、という彼の議論は67年前後、日本でも「マクルーハン旋風」とやらを巻き起こしたのだった。
ぼくらは知っている。あのキレイな女優さんは化粧(と、ときどき整形)の産物で、あの感動的なドラマは精緻な脚本の棒読みで、あの芸人のリアクションでさえ周到に準備されたものであることを。戦争報道の現地中継だって、多くの場合、戦争の「現場」に記者はいないのだ。
テレビにリアルなんかない。テレビは所詮、娯楽だ。そう思ってぼくらは画面を冷ややかに見ている。ときに冷ややかに泣き、冷ややかに大笑いする。でも、それってなんだかむなしくないだろうか。当時の人たちがそう考えていたのかどうかは知らないけれど、テレビを皮膚で捉えることでリアルを回復しよう、「マクちゃん旋風」にはそんな意味があったんじゃないだろうかと思う。
テレビにリアルを与えようっていう動きは他にもあった。その集団は「dA」といって、TBSの若手テレビマンだった今野勉、村木良彦、実相寺昭雄(ウルトラマンシリーズのあの人)たちがそのメンバーだ。彼らはリアルの復活を「ジャズ」に見た。脚本を排してしまえ、と彼らは考えたのだ。予定調和を避けて、スタジオではなく野外で撮影してみたり、素人を画面に登場させたり……「たえまなくやって来る現在(いま)に、みんなが、それぞれの存在で参加するジャム・セッション」を実現するためなら、彼らはやれることなら何でもやったのだった。
彼らの目指していた方向、それは実は今も舞台をインターネットに変えて模索され続けているといえるのかもしれない。双方向テレビはもうあきられちゃっている気がするけれど、ニコ生(ニコニコ生放送)はいまでもまだまだ注目の的だ。たとえば東浩紀とか宇野常寛とかの討論がインターネットを通して生配信され、視聴者はリアルタイムでそれに短いコメントをつけていく。コメントはリアルタイムで配信動画に流れこんで、討論者たちはそのコメントを見ながら討論を進める。いかにもジャズ的なメディアのかたちじゃないだろうか。
けれど、ぼくらはその道の終着点を知っている。今野たちがつくった「テレビマンユニオン」がいまや『世界ふしぎ発見!』とか、見慣れたメンバーの落ち着いた作品をつくるようになったことを見ればいい。結局のところ、メディアに送り手と受け手がいるという動かしがたい現実の前では、ジャズ的なメディアは挫折せざるを得ないのだ。ニコ生にもホントのリアルなんかきっと生まれはしないだろう。
どうやら60年代にメディアが直面していた問題はいまも新しく、そして難しい問題らしい。じゃあ、メディアは永遠にリアルから切り離されて終わるのだろうか。んんん……現代のテレビマンさんたち、どうなんでしょう?
(さとう・しん=東大法4年)=毎週木曜日に掲載
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