あやぶろ

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20138/28

マルチエンディング〜デジタル化で我々の手に戻った「物語」

スクリーンショット 2014-07-06 2.08.04
夏〜。人形町から日本橋方向を眺める

 デジタル時代も弘法大師はリスペクトされるだろう

研究所のオタク後輩クニ中村が「この前話してたような動きがフジテレビで始まるみたいっすね」と興奮してる。

彼が紹介してくれたのは、フジテレビとYouTubeのコラボ「セブンティーンキラー」というドラマ。なにが新しいかというと、エンディングが18個も用意されている。
YouTubeでこのドラマを見てるときに、画面上に表示される箇所をクリックすると、そこからそれぞれ違うエンディングの動画が見られるらしい。こういう仕掛けを「マルチエンディング」と呼ぶ。
クニ曰く「ゲームはすでにマルチエンディングなものが増えてるんスよ」

この前、マックで奴と話したのは、ゲーミフィケーションの手法を取り入れ、シナリオをゲームや映像にマルチ展開する話だった。クリエイターは脚本を書くのではなく、「場」を作る構想力が大事なんだ的なことをブッていた。(参照:JBPressに書いた記事)
「マルチエンディング」をもっとオープンにすれば、作者の「公式エンディング」の外に「勝手エンディング」の輪が丸く広がるかもしれない。(「ソーシャル・クリエイティブ」と呼ぼう。参照:丸と線)
「風立ちぬ」もそうだったら、面白いのに。。。
しかし、この「マルチエンディング」という手法、作家と受け手の関係性がフラットになってしまってることに気づく。
「風立ちぬ」で受け手は「作品を見て感想を書く」ことしか許されない。それは、「表現」の支持体(メディア)の限界もあるが、作家へのリスペクトが自然にそうさせるのだろう。受け手ではとてもマネできない「技」「感性」を見せられて感じる「スゴっ」っていう気持ち。
たとえば、ブルース・リーのこの動画。ヌンチャクで卓球って。。。絶対ムリっす。そういえば、こんなのもあった。ロナウジーニョがゴールポストとサッカーしてる動画。これもムリ。タイガー・ウッズのコレも。
そんなクリエイター(全部アスリートですが。。。)たちのスゴ技を見たときの「畏敬感」が、作品に踏み入ることを自然に留まらせるのだろう。

この「畏敬感」、アナログな人間技で無ければ、抱かないようである。「道具」がスゴいじゃダメなのだ。
「弘法筆を選ばず」じゃないとリスペクトの対象にならない。
この「スゴっ」「自分じゃムリ」ってくらいの「技」はとても人気ある。
アートの世界で最近とても細かく描き込んだ絵が人気あるのもそこにあるんじゃないか。「ここまで時間かけて、描けないよ〜」っていう「スゴっ」だ。
自分も実際、見入ってしまうけれど、反面、時間あれば誰でも出来るんじゃないの?って思ってしまう。それより、一筆描いたのになんか細かく描いたように見える技のほうがスゴいんでは。。とか。
しかし、一般的には一筆でグイっと書いたものは、「ただ、筆をパーっと動かしただけでしょ」的に見られがちだ。あんな太い筆あれば、誰でもできるゼ的な。
弘法大師が筆を選んで書いてるよ。みたいな。

実際、自分の水墨画のYouTubeチャンネルに「I like your brush」とコメントを貰うことがある。そのココロは、「君が絵を上手く描けるのは「技」じゃなくて「道具」がいいからだ」ってところ。(自分も同じ「筆」を持ってたら、同じに描けるゼっていう意味)
この「スゴっ」っていう評価基準はとても表面的だ。一般的な反応である。
それはともかく、「テレビ」も同じことを言われそうな部分があるんじゃないか。「同じ機材使えたら、同じ映像撮れるし」みたいに思われてたら。。。ホントは違うのに、そう見られちゃってたら、それ自体マズい。
なにしろスマートフォンで撮影も編集もできる。誰もが映像を撮る時代だ。
マンガでは、ドラえもんの最終回にこんなのある。絵を描く「技」のハードルはだいぶ前に下がっている。歌は「初音ミク」で人間不要になった。
そして、今度は映像分野の番である。
誰もが表現(もしくは記録)できる「道具」が手元にある。それが、表現者と受け手の関係をフラットにしてしまっている。

 

複製と複層

もう一つ、この「マルチエンディング」で思い起こしたのは、稲井さんが常々主張しておられる「エディターシップ」について。参照:(捨てる力と伝える力)

制約がいい表現を生む。メタモフォースな制作に「プロ」の源泉がある。
水墨画をやってると、その気持ちとてもよくわかる。
でも「マルチエンディング」や「ソーシャル・クリエイティブ」を考えると、なんで白黒なの?空白を残すの?なぜ「捨てる」必要あるの?と敢えて問い直してみたくなる。
捨てる「必要」があったのは、時間や材料、お金に制約があったからで、その制約がなくなれば、捨てないテンコモリ制作ってのもアリでは?と考えてしまうのである。
いや、自分はミニマリズムが好きなのだけど、なんで「捨てる」ことがこんなに良しとされ、「余分なものを捨て研ぎ澄まされた感性」的なもてはやされ方をするんだろうか?と。
水墨画を何枚も描いてると、余分な線を捨て、絵柄がどんどんシンプルになる。描き直しが出来ないっていう制約のおかげかもしれない。
でも、こういうときもある。何枚か描くうちに、「うん。これでいい」というのが見えてくる。まさに、紙から浮き上がってくる瞬間。
そこで、じゃあもう一回描いてみようってことで、そこから何枚か描くのだが、そうすると、甲乙つけ難いものが出来上がる。
どちらがいいか、最終的に結論づけるのだが、選ばれなかったほうがいいって言う人もいるだろうな〜、なんてことも思うのである。これは、制作段階のエディティングではないけれど。。
それで、なぜ1作品を選ぶのかっていうと、展示のスペースがもったいないとか、作品の希少性とか、なんか作品の本来の良し悪しとは関係ない理由だったりする。

「マルチエンディング」は、書いて「捨てない」手法である。むしろ、少しでも多くの物語を用意しなければならない。
「結末を何通りも作る」そんな「表現」方式が、いま普及してないのは、材料や財力のせいなのか、それとも、人間が本来求める作品のカタチとはそういうものなのか?どっちもアリなのか。

2年前に前川センパイとベンヤミンの「アウラ」について議論した。写真=複製芸術に1点ものの「アウラ」はあるのか?という問題提起だった。
このときは、「複製」がポイントだった。
「マルチエンディング」は「複層」である。
もし、作品は一つだけという理由が物理的な制約だとしたら、「クラウド」「ソーシャル」でその制限が外される一連の「デジタル」化は、新たな「表現」形式が生まれる要因になるのではないか。
つまり、90年代以降の「デジタル」化が「表現」に与えた大きな影響は何かと問われれば、それは「表現の複層化」と言えないか。

100年後の人間は、エンディングが多層に重なる「物語」を当然のものとして楽しんでるかもしれない。
しかし、よく考えたら、神話やら昔話は、地方によって少しずつ違うし、話す人によっても違うだろう。別な話をくっつけちゃうこともある。それが長い年月かけてコナれたものになってるんだろう。
「マルチエンディング」「ソーシャル・クリエイティブ」って別段特別なものじゃないのかも。
なんか「物語」を書いてビジネスにするなんてことは昔はなかったわけだし。誰もが語り、誰もが聞いていたのだ。作家と受け手はそもそもフラットな関係だったんじゃないか。
それ考えると、ますます結論が一つの作品ってのは、商業的、効率的な理由なんじゃないかって思えてきた。

 スクリーンショット 2014-07-06 2.08.26

暑すぎてバス亭で寝る人@人形町

 

オマケ(記録と表現、時間の制約とソーシャルの熟成について)

いつも、オタクニ中村研究員と午後茶するマックのある人形町通り。昭和43年まで水天宮から新宿まで都電が走っていたらしい。いまは、「秋26」という都バスが秋葉原までタマに走ってる。

「この通りに都電?!」気になってググると、写真や思い出話がたくさん出て来た。
(都電13系統路線図。水天宮を走る都電の写真① 写真② 写真③ 写真④、写真⑤ 写真⑥ ブログ① ブログ② ブログ③ ブログ④ ブログ⑤ ブログ⑥(坂道)ブログ⑦(インタビュー)

これらの画像はメディアでなく一般の人がインターネットに貼付けたものだ。少しのエディターシップは感じられるけれど、それほど見やすいってわけじゃない。

それでも、食い入って見てしまう。のめりこんじゃう。
YouTubeにアップされてるこんな昭和の風景もつい食い入るように見てしまう。こうしたメディアの外側で切り取られた映像は、昭和40年代は公害、デモ、ヒッピーだけじゃないってことを改めて教えてくれる。
そして、こうした捨てない記録も時間が経つと価値が出ると思った。
捨てないで置いといたものがネットで公開される。それを誰かが「NAVERまとめ」でまた見せる。「NAVERまとめ」も、どっちかっていうとあまり捨てずに羅列するほうだろう。
つまりはこういうことかもしれない。
「記録」は時間をかけて、「表現」に転化する。それを時間の制約があるなかで、効率的に「表現」にするには「捨てる力」が必要だった。
しかし、テクノロジーが、その「時間」の制約をとっぱらったら、「捨てる力」は重要視されなくなるだろう。
そして、「ソーシャル」で関わる人数が増えれば、その分、「記録」が「表現」に転化するのにそれほど「時間」は必要ない。だから、とりあえず「複層」化した「物語」を提示し、それを「ソーシャル」がクイック熟成し、ひとつの物語に昇華してくれるんじゃないか。
「デジタル」化で、「物語」は企業のものから一般の人(受け手)のものに戻されたのだ。
「マルチエンディング」は、その流れで顕在化したひとつの象徴である。

 

志村一隆(シムラカズタカ)プロフィール
1991年早稲田大学卒業、第1期生としてWOWOWに入社。2001年モバイルコミュニティを広告ビジネスで運営するケータイWOWOWを設立、代表取 締役就任、業界の先駆けとなる。2007年より情報通信総合研究所で、メディア、インターネットの海外動向の研究に従事。2000年エモリー大学で MBA、2005年高知工科大学で博士号
『明日のテレビ-チャンネルが消える日-(朝日新書)』、『ネットテレビの衝撃(東洋経済新報社)』が絶賛発売中。ツイッターは zutaka

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