あやぶろ

多彩な書き手が、テレビ論、メディア論をつなぎます。

© あやぶろ All rights reserved.

20147/29

なぜネット記事の質が低下しているのか?

最近、Facebookのニュースフィードを見ていると、「この記事はひどい」といった批判とともに、さまざまな記事がシェアされてくるケースが増えています。
「事実を歪曲した揚げ足取りだ」とか「ろくに調査もせずに思い込みで書くんじゃない」とか。
こうした傾向の原因を、ライターのモラルの問題として帰結させてしまうのは簡単なのですが、果たして単純にそういう話なんでしょうか?
ということで、問題発生のメカニズムを分解して考察してみたいと思います。

問題の原因は大きく3つある

自分なりに整理すると、問題の原因は大きく3つに分けることができそうです。

1. 「集合知による良記事の選別」というメカニズムが機能しない
2. 極端な記事でバズによるPV稼ぎを狙うケースが目につくようになっている
3. どれくらいの信頼性を保証する記事なのか、読者に適切に伝わっていない

1.「集合知による良記事の選別」というメカニズムが機能しない
玉石混淆なネット上のコンテンツの中からいかにして「玉」を抽出するかという問題は、ネット関係者にとっては長年のテーマです。
その中で「集合知による選別」、つまり「多くの人々が支持している記事はよい記事である」という考え方は、現在でも主流といえます。(Gunosyなどのニュースキュレーションメディアは、基本的にこの考え方に立脚していますね)
Facebook経由の記事流通も、友人の選別というフィルタが機能しているという意味で、「集合知による選別」のひとつと解釈できます。

しかし最近、Facebook経由で流れてくる記事の質を見ていると、「この考え方って本当に有効なの?」と疑いたくなってきます。

Facebookではポジティブなことしか書いてはいけない理由
http://bylines.news.yahoo.co.jp/fshin2000/20140713-00037347/

これは、ちょっと前に書かれたえふしんさんの記事。
Facebookにおいて、集合知による良記事の選別が機能しないメカニズムが指摘されています。

・最初の段階で全ての書き込みがあらゆる人に出るわけではない。
・誰かが「いいね」をつけたりコメントをつけると、その書き込みを評価したことになって、その「誰か」のタイムラインに乗る。(つまり友達の友達に知らされる)
・短期間に書き込みが集まると、話題の書き込みは上に出る(多分。2ちゃんねるで言う、「age」状態になる)
つまり、誰かが反応すればするほど、元の話題はどんどん沢山の人に注目されるようになる。

たとえ否定的な意味の反応であろうと、結果的に記事の拡散を助長することにつながる、ということです。
「この記事ダメダメだわー」「ほんとだねー、ひどいねー」と言えば言うほど、そのダメダメ記事はフィルタにふるい落とされるどころか、むしろより高速に拡散されていくわけです。
そして、自分のニュースフィードが、どんどんダメ記事で埋め尽くされていくというわけです。

「集合知による選別」そのものがダメ、というより、Facebookにおける記事露出コントロールの仕組みが、記事の良し悪しを的確に反映できるものになっていない、ということに問題があるといえるでしょう。
もっとも、何をもって「良記事」とするのかは難しいところです。
ダメな記事をシェアしてツッコミを入れ合うのも、コミュニケーションとしてはアリで、有効なコミュニケーションのネタを提供してくれたという意味では「良記事」なわけです。
「どういう意図でシェアされているのか」「受け取り手は何を期待しているのか」といったことと無関係に、一軸で良し悪しを評価するということ自体、そもそも無茶なのかもしれません。

2.極端な記事でバズによるPV稼ぎを狙うケースが目につくようになっている
極端な記事でバズによるPV(ページビュー)稼ぎを狙うケース、いわゆる「釣り」を目にするケースが増えていることも、記事の質低下という印象を抱かせるひとつの理由になっていると思います。
この側面は、さらに2つに分解できます。
A. 「釣り」は拡散しやすい(拡散しやすいように狙って書かれている)→結果的に目にする機会が増えている
B. 「釣り」コンテンツの発信量が増えている

Aについては、まあそりゃそうだろうという話です。
前述の通り、ソーシャルメディア経由の記事流通においては、良記事の選別というメカニズムは必ずしも働かないので、ネガティブな理由であっても注目度が高ければ(あるいは何かつっこみたくなる要素があれば)拡散されていきます。結果として、そういう記事を目にする機会が増えていく、というメカニズムが働くのは、想像に難くありません。

Bについては、実際に「釣り」コンテンツの発信量が増えているか調査したわけではないので、事実としてどうかはわかりません。 ただ、仮にその通りだったとして、「釣り」コンテンツの発信者を「けしからん」と非難するのは、個人的にはちょっと違うと思っています。
現在のネットメディアは、ざっくりいえば「PVを稼いだ者が勝ち」というルールのゲームです。そして、ソーシャルメディア経由のコンテンツ流通がPV獲得の手段として重要度を増しており、そこではいかにバズらせられるかが勝負の分かれ目になっています。
そういうルールの中で各プレイヤーが戦っている以上、メディアやライターがそのルールに最適化した行動をとるのは「正解」といえます。

ただ、こうも考えられます。「『釣り』コンテンツで一度はバズらせることに成功したとしても、やがてそのメディアは信頼を失うので、長期的に見ればむしろマイナスだろう」と。
しかし、ここに近年の記事流通のもうひとつの特徴があります。それは、「記事がメディアから切り離されて単独で流通している」という点です。
たとえば雑誌であれば、質の低い記事ばかり載せていたら、やがて売り上げが落ちていくでしょう。それは、その雑誌というメディアに対する評価が長期的に蓄積され、購買者に意識されるからです。
でも、近年のネットにおいては、提供メディアから切り離された形での記事流通が重要度を増しているといえます。
この状況では、長期的なメディアのブランド育成より、刹那的な注目度を優先した方が得、というゲームになっているかもしれません。(過去のブランドの蓄積がない新興メディアにとっては特に)

つまり、問題は「ゲームのルール」、すなわち近年の記事流通のメカニズムにあるのです。そのルールの上でゲームをしているプレイヤーに「負けてでもモラルを守れ」といったところで無茶な話です。
それよりも、彼らの行動を誘導している「ゲームのルール」に原因を求めた方が妥当であるように思えます。

3.どれくらいの信頼性を保証する記事なのか、読者に適切に伝わっていない
一方で、個人が一見解として書いたブログなどがひとり歩きし、「信頼性が低い」として攻撃されるというケースも発生しているようです。
ブログを記事だと勘違いしている人が多すぎる
http://www.landerblue.co.jp/blog/?p=13664

これは、ちょっと前の永江一石さんのブログ。
永江さんはこの文章の中で「記事」と「ブログ」は違う、と述べておられます。
・記事=事実を書くもの
・ブログ/エッセイ=各自が自分の見地で好きなことを書くもの

先ほどから僕は不用意に「記事」という言葉を使っており、「記事」の質がどうのこうのという観点で書いてきましたが、「そもそも俺は『記事』を書いてるつもりはねぇんだよ」というケースがあるということです。
そして、ブログ/エッセイとして書いているものに対して、記事としての信頼性を要求するのはおかしいだろ、という、ざっくりいうとそういう話です。
このへんに関してはいろいろ経緯があるようですし、この永江さんの見解にも賛否両論あると思いますが、純粋にここで書かれている点だけに関していえば、個人的には永江さんの意見に同意です。
つまり、エッセイレベルで個人の見解を発信する自由はあっていいと思います。
そこに常に裏付け事実の信頼性等々をシビアに要求されるようになったら、プロ以外の書き手は怖くて何も書けなくなってしまいます。
(もちろん、不用意に間違った情報を流して誰かに迷惑をかけることは(避けられるなら)避けるべきだし、やってしまったら最大限フォローすべきだとも思いますけども)

きちんとした取材に基づいたジャーナリズムが存在する一方で、根拠が薄いなりにも多面的で高速な情報発信がアマチュアレベルで行なわれてきたことによって、情報源としてのネットはオールドメディアにない価値を手に入れたのだと思います。
その先は、ひとつひとつの不確実な情報をどのように活かして有用な情報を取り出すか、という姿勢こそ重要なのであって、「不確実だ、レベルが低い、そんなもん書くな」と排除する姿勢は、建設的な発展にあまりつながらないと思うわけです。

さて、「記事」と「ブログ/エッセイ」が存在すること自体はOKだとして、じゃあなぜこのようなズレが起きてしまうのか。
これも、「記事がメディアから切り離されて単独で流通している」という点が強く関係しているように思われます。
ソーシャルメディア経由でシェアされてくる文章を目にする人の多くは、その文章を書いたのがどういう人で、どういう姿勢で文章を書いているかを知らないわけです。
ライターさんは、「ジャーナリズム」などという意識なしに、自分の自由な意見を書いているだけかもしれません。でもそれを目にする人は、ニュース記事等と同レベルの信頼性を、つい勝手に求めてしまうのかもしれません。

また、少し強引に推測すると、「友人からのシェア」という経路であることも、このズレを助長しているかもしれません。
友人からシェアされた情報は信用しやすいというのはよくいわれる話ですが、友人からのシェアであるが故に、単なるエッセイ的な文章でも「信頼できる(はずの)記事」であることを期待してしまうのかもしれません。

さらに最近ややこしいのは、ハフィントンポストやBLOGOSなどのメディアに、個人のブログ記事等が転載されてシェアされてくるケース。こうなると、読者としては、当然それなりの信頼性を期待したくなります。
そして、さも信頼できる情報であるかのように錯覚してしまうがために、その信頼を裏切られたときに腹が立ち、その怒りの矛先が書き手に向かう…というメカニズムができてしまっているのかもしれません。

どうすれば解決するのか?
このように考えていくと、ネットで目にする記事(コンテンツ、と言い換えた方がいいかも)の質が低下している(と感じる)理由を、メディアやライターのせいにするのは、必ずしも的を射ていないと思います。
むしろ、昨今のコンテンツ流通メカニズムのいびつさが顕著に現れてきた結果、と解釈した方が正しい気がします。

では、具体的にどうなれば、このいびつさが解消するのか。

あやぶろ執筆者でもある境さんが、最近Facebook上でよく「このメディアは信頼できる」とか「このライターは信頼できない」とかいったコメントをよくされています。逆説的かもしれませんが、これがひとつのヒントになりそうな気がしています。
つまり、メディアやライターに対する長期的な評価が、記事流通に反映されるようになれば(つまり、長期的に評価の低いメディア/ライターの記事が流通しにくくなるようになれば)、ゲームのルールは変わってくるのではないか、ということです。

Googleの新しい検索順位決定ロジックである「オーサーランク」という概念は、ざっくりいうと上記のような考え方を「検索」という場に持ち込むものでしょう(たぶん)。そういった考え方が、Facebook(あるいはその他のソーシャルメディア、キュレーションメディア等)を経由したコンテンツ流通においても必要になってくるのではないでしょうか。

また、3の問題(「ブログ/エッセイ」を「記事」と誤解されてしまう問題)まで含めて考えると、メディア/ライターに対する評価は、単に信頼性の高低という一軸で測るべきものではなく、書き手の特徴を多面的に捉えるべきものかもしれません。

いずれにせよ、Facebook経由で雑多なコンテンツが並列で流通しているいまの状況は、これまで書いてきたように、さまざまな形でいびつさの原因となっていると考えられます。
Facebookが「情報収集ルート」として有用であり続けられるかどうかは、このいびつさを解消できるかどうかにかかっているのではないでしょうか。

 

伊與田孝志  プロフィール
ニフティ株式会社勤務。ソーシャルテレビサービス「実況レビ番組表みるぞう」のプロジェクトリーダー。
テレビ業界の外の立場から、ソーシャルとテレビが作る幸せな未来を探っています。
1996年、富士通株式会社入社。1999年よりニフティ株式会社勤務。
社会人一年目から一貫して、インターネットサービス事業に従事。ユーザーインターフェイス設計を中心に、数多くのインターネットサービスプロジェクトに参画。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

関連記事

コメントは利用できません。

20145/26

ドワンゴ会長の示すメディアの未来

5月14日、ドワンゴとKADOKAWAの経営統合が発表された。 そして統合した会社の代表取締役会長になるドワン…

20177/14

あやぶろ復活第1弾!NHKの同時配信についてホウドウキョクで話しました

実は、先月末で38年間働いたTBSを完全に離れ独立、フリーランスとなりました。この3年間は、TBSの関連会社2社の社長業が忙しすぎて、この「…

20132/20

テレビがつまらなくなった理由

まず、お断り アイキャッチ画像と、タイトル及び本文とは関係ありません。 それから、今回のタイトルは、一般視聴者やユーザーにとっては別…

20136/20

のめりこませる技術

 パロ・アルトのフォーチュン・クッキー 「出るから、入りな」 どこからか歩いてきたサングラスのオバサンが指差した。 パーキング前で…

20144/27

テレビの未来がますます鮮明に・・・最近の統計データから

このところ立て続けに発表された統計データが、かなりメディア周りのドラスティックな変化をつたえています。いくつかの解説記事も出ているようですが…

ページ上部へ戻る