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20121/10

ネットは嘘つかない―前川英樹さんの5つのご質問に本音でこたえる①― 河尻亨一

★前口上

前川さんの“お屠蘇気分の挨拶”に返答したいのだが、この5つの質問はなかなかヘビーですね。しかし、これまでみなさんとお話してきた諸処のプロブレムの核心に触れる部分である気もして、現時点での自分なりの見解をキチンと示しておく必要があると思いました。最初に僕のスタンスとアプローチをクリアにした上でお話します。

★序

自分はテレビ(メディア)に対しても、ソーシャルメディア(ネットワーク)に対してもなるべく“ニュートラル”な立ち位置でいようとしている。あやぶろではすでにお話した通り、“マスメディアン”な色合いの濃厚なお歴々の前ではネットワークな視点を導入しようとするし、刹那的な“テック”の戦場でバシバシ鉄砲を撃ちまくっているビジネス系お兄様方の前では、メディア経験者面した上で「いま多少イケイケだったとしても、ままじゃ3年保ちませんよ、たぶん」などと放言し、ひきつった笑顔で見守っていただいているという次第だ。

その両者の往復運動というか、揺れ動きの中に突破口を見いだしたいと言えば聞こえは悪くないが、まあ、天の邪鬼なロスジェネ野郎の戯言程度に捉えていただければこれ幸い。

もう一つ、僕のスタンスを明確にしておくと、自分は現在の「メディア×ネットワークの現象」について、どちらかと言えば「テックとクリエイションの関係性」、そこに生じる「作法と倫理」、あるいは「新しい生活美学」といった位置からコメントしている。

“生活美学”とは、言ってみればまあライフスタイル系のことだが、そう書いてしまうと「都心の高層マンションでのちょっとハイソなイケてるオレ」みたいなイメージで受け取る人も依然生息するかもしれないと予測されるので、あえて漢字で。

それをわかりやすい例として翻訳すると、「本に囲まれて暮らしたくはないが、必要な情報や知見はほしい。昨今の経済情勢に鑑みても、デカい持ち家なんかはたぶん一生無理だし無駄だし、物欲も所有欲もそんなにないけど、家事くらいは普通にしますし、移動したいときには移動したいし……」といったことだ。

もちろん、食べて行く必要がある以上、ビジネスな方面にも色気はあるわけですが、主な関心は「自分とほかの人が面白いとか役立つと思えるものはどうやったら作れるの?」「この混迷の時代に批評的であるとはどういうこと?」みたいなところにあって、別に正義をふりかざしたり、ネット上の無辜の民を徒に混乱させたり、釣りまくってやろうと考えているわけではないのであしからず。

そのあたりを自分なりに考え、執筆、編集、企業戦略、企画、イベント運営、大学の講義も含めた各種トークショー出演などの形で淡々とアウトプットしているのがいまの自分の活動と言えそうだ。それらの延長線上に僕にとっての“社会”と“世界”、もしくは“ビジョン”のようなものがある。

上記のスタンスおよびアプローチは、「紙メディアでありながら、極めてマニアックかつミニコミネットワーキング的な雑誌(広告批評)の世界」で、僕が長らく暮らしていたことで培われた部分が大きいと思う(その前にモダンジャズをずっとやってたことも関係がありそうだ)。

なぜ、わざわざこんな長い前置きをするかと言うと、まあ、あやぶろFB上で突如勃発した場外乱闘もなかなか興味深い様相を呈しており、昨年色んなところに色んなことを書き散らしてしまったので、ここらで改めて「お前はだれやねん?」を言っておいたほうがよいかと。

それらをふまえて、回答にトライしてみると。。。

★前川さんからの質問①

「世界史において初めて、機械的な複製は芸術作品を儀式への寄生的な依存から解き放った』というベンヤミンの一節が引用されているが、そのさき出てくる『芸術は儀式に基づくかわりに、必然的にある別の実践、すなわち政治に基づくことになる』をどう読むべきか。これは、20世紀から21世紀に向けられた問いではあるまいか。ベンヤミンはファシズムに向き合っていた。いま、私たちは何に向き合っているのか。

★回答①

私たちが向かいあっているもの。震災2日前に僕があやぶろに投稿したポストから自分で引用すると、これは「空虚」である。芸術作品は日常の空虚(隙間)を埋めるためにある。しかし、「儀式への寄生的依存」に粛々と従うのみのクリエイティブは、そのウソくささによって、現代社会の空虚を埋めえないであろう。

あの原稿で「空虚」にパラレルなものとして挙げた「空腹」に関して言うならば、これを埋めるのは行動である。それは何も中東のデモに言及するまでもなく、漫画『はだしのゲン』を読んでもわかることだ。

では、デジタルがカバーしつつある「なう」の空虚を埋めるクリエイティブとは? 大きく言うと、ひとつは「身体性」であり、もうひとつは「参加・体験性」だ。長くなるので事例は割愛するが、それに関しては現代アーティストの様々な作品や前回のポストでも挙げた「Google Chrome×初音ミク」など数えきれないくらいのトライアルがある。

それ(芸術)と政治はどう関わるか? それを考えるためには「政治」の定義をする必要がありそうだ。

前川さんが用いている「政治」(あるいはベンヤミンが意図した「政治」)の意味をどこまでの範囲で捉えたらよいかが判別しかねるが、僕の考え方で言うならば、「政治とは、垂直的関係性の力学を利用した社会調整作用」であり、それは国家制度的概念より広い。つまり中学校の部活にも「政治」はある。しかしこの場合、芸術に対する概念として、「空腹」な人々ができるだけ少なくなるように(「空腹」でない人はもっと腹一杯になるように)、諸部門のバランスを考えトータルデザインする機能くらいに考えておきたい。

ちなみに特定の酋長を持たず、水平的ネットワーキングでコミュニティを維持して来たアパッチ族などは、我々の社会から見るとあまり政治的には見えない。しかし、そこにはスモールサイズであるからこそ成立する「政治」があったりもするのだろう。

ファシズムという政治形態はおそらく当時、「空虚」と「空腹」の両方を埋めてくれる装置として映ったのではないだろうか?(日本にファシズムが「あった・ない」の話はさておき)。“「空虚」を埋める=芸術、「空腹」を調整する=政治”という関係性が統合されたハイパーイデオロギーに対して、ベンヤミンはなにがしかのリアクションをしたということではないだろうか?

しかし、現在の日本はトータルでは「空腹」とまでは言えないようだ。今後はわからないが「空虚」オンリーではファシズムは生成されにくい気がする。不満を回収する受け皿があったとして、それはファシズム的気分に留まらざるをえず、せいぜい「ハシズム」程度がせきの山であり、暴力的狂気は発動しにくいようにも思う。

そこに「空腹」が加わったとき、再びガチなファシズムが社会にウイルス伝播する可能性がないとは言えないが、健全な水平的ネットワークの構築はその蔓延を押しとどめる作用もあると個人的には考えている。どちらかと言うと、色んなことがヤバくなったときファシズムに加担しそうなのは、そこに生じる諸処のトラブル(主にお金)によって巨大組織を維持できないドメスティックなマスメディアだ(歴史的に見ても、今年の一部全国紙の元旦社説を読んでも)。

マスメディアの情報伝達の方法は、どちらかと言えば“洗脳的”であり、ネットワークのそれは、どちらかと言えば“ウイルス的”である。いつの時代にも洗脳されにくい人やウイルスへの耐性が高い人はいるものだが、本当に恐いのはこの両者(メディアとネットワーク)の特性を熟知し自在に操る“ファシスト”が現れたときである。一方だけでは難しいであろう。

ちなみに出身地だからわかる面もあるが、“大阪人民”は橋下市長が「使えない」と思った瞬間捨てると思う。「もうエエわ。飽きた」で終わる風土だ。少なくともいまは「使える」「面白い」と思っている人が多いということだろう。彼の「態度」ではなく「機能」を見極めたほうがよい。

そういえば、子供の頃(1970年代中盤から80年代前半)、大阪の親たちは「テレビばっかり観てたらアホになるよ。勉強せんかったら吉本入れるよ」と言って子供を脅していた(関西のお笑いが全国区になる前の話だ)。紙メディアは「テレビっ子」という言葉でその状態を危惧していたりもしていたが、それもいまは昔。いま親たちは子供に「ケータイばっかり触ってたらアホになるよ」と言っているのだろうか?

それはさておき、ファシズムを避けたいのであれば、コミュニティに属する“大人”は、徒に“呪いの言葉”を発するべきではないだろう。近代以前の村の長老でさえ、呪いを鎮め祝いを導くために存在する。それが祭りごととしての政治である。ましてや現在、「機能」について語ったほうが賢いと私は思うものである。

少なくとも「ネット上は呪いの言葉に満ちている」などと宣う前に、どうすれば「呪いが祝いに変わるのか?」を無力であっても発信し続けたほうがよい。問題を指摘することは容易い。それは従来型の手法に過ぎない。ファシズム的気分と本気で戦うのであれば「メディアとネットワーク」双方の特性を熟知し、使いこなすことが必要となるだろう。

そして、いま求められているのは、「オオカミが来たぞー」ではなく「王様は裸だ」をいかにあぶり出すか? である。

【管理人より】
このポストは字数制限を大幅に越えていますので、4回に分けてアップロードします。

★新プロフィール
河尻亨一(元「広告批評」編集長/銀河ライター主宰/東北芸工大客員教授/HAKUHODO DESIGN)

1974年生まれ、大阪市出身。早稲田大学政治経済学部卒業。雑誌「広告批評」在籍中には、広告を中心にファッションや映画、写真、漫画、ウェブ、デザイン、エコなど多様なカルチャー領域とメディア、社会事象を横断する様々な特集企画を手がけ、約700人に及ぶ世界のクリエイター、タレントにインタビューする。現在は雑誌・書籍・ウェブサイトの編集執筆から、企業の戦略立案およびコンテンツの企画・制作まで、「編集」「ジャーナリズム」「広告」の垣根を超えた活動を行う。

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