あやぶろ

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201311/14

第1回「あやブロナイト」で語られたこと&語られなかったこと-せんぱい的とりまとめ-

8. ところで、番組は商品として制作市場で生産され、放送市場及び二次利用市場で流通し、視聴者/受け手/ユーザーによって消費される。それはそれで経済構造においては当然のことであり、市場原理によって成立する。

9. しかし、制作者の初発の想像力は原価計算の外にある。その意味で、制作者は市場の内と外を往還する。そもそも想像力の行使は市場が成立する以前から人間の行為としてあるからだ。

10. あるいは、視聴者/受け手/ユーザーが見終わって<得たもの>は負担した対価に見合ったかどうかというと、それは計算の外に及ぶ場合がある。また、人によって対価との見合い方は当然異なる。「一物二価」どころか、見た人数分の値が出現する。ここでも、番組(コンテンツ)の市場原理とは何かという論点が発生する。これは番組だけではない。コマーシャルではもっと複雑な要因が入り組んでいるだろう。

11. もちろん、そういうことを呑みこみつつ、総体としての放送市場は成立している。
しかし、どの商品でもそうかもしれないが、番組制作においては市場原理に還元するだけでは、番組の価値構造は見えてこないと思うのだ。

12. もう一つ。テレビはテレビ放送用周波数とどういう関係であるべきかをもう一度考えるべきだ。「ハード・ソフト一致か分離か」というテーマは古典的であると同時に現在進行形の論点であるはずだ。免許=規制の問題は根が深い。
メディア論が盛んだが、ビジネス論やコンテンツ論、コミュニケーション文化論ばかりでなく、メディアの政治学が必要なのである。

13. 無線局免許の意味は何かと言えば、まずは時間インフラの権力管理であり、そこから「インフラと情報の相互関係」を通して情報空間を監理するための仕組みであると考えられる。

14. であるからこそ、放送における「言論表現の自由」が重要なのである。何故ならば、放送においては他のメディアよりも「規制」の根拠が構造的に組み込まれているのであって、表現と規制が内部的にも外部的にも直截的に向き合うからである。

15. この仕組みが成立するのは、放送が中心(=局)から放射状に情報発信する仕組み(マス構造)によって成立するからである。放送=Broadcastとは種を広く撒き散らす(岩波文庫のマーク、種蒔く人が思い浮かぶ)という意味であり、中国語では放送のそもそもであるラジオを直訳して「廣播」という(テレビは電視)。

16. ソーシャルメディアにおいて情報の発信受信構造は<多中心>ないしは<無中心>である。それが「インターネットの自由」の前提にある。

17. では、本当に「インターネットは自由」であるか?

18. インターネット(で情報交換をする人ひと)が自由であるとして、「インターネットはその自由に耐えられるか?」
自由とは、自立と自律を背負うことである。

19. 制作における「想像力」の問題と放送における「免許」の問題=この二つを突き合わせた交点にどのような像が結ばれるか、それが放送メディア論における文化と政治の関係性として語られなければならない。

20. ついこの間まで、通信と放送の融合が語られたてきたが、その時の放送側の主張の一つの根拠は「放送は文化である」(だから、融合はありえない⇒したくない)というものだった。

21. これは殆んど非論理の自己擁護論である。

22. デジタル化のようなメディアの存在そのものに関わる条件変更の時こそ、自分の存在理由を根源的に問い返すべきなのだ。いや、そのためにこそ「デジタル化」が必要だったのだ。

23. 「放送は文化である」・・・Yesとしよう。では、「文化である」とはどういうことか。文化は非政治ではなく、政治へ対峙する緊張から生まれる運動である。文化の“自立”とは政治的であることの捨象ではないし、政治をさて置くことでも、政治との中間距離を取ることでも、放棄でするもない。向き合うことである。

24. 第13回「日韓中テレビ制作者フォーラム」レポート(http://hosojin.com/a-blog/)にこう書いた。
「『政治の幅はつねに生活の幅より狭い。本来生活に支えられているところの政治が、にもかかわらず、屢々、生活を支配していると人々に錯覚されるのは、そこに黒い死をもたらす権力をもっているからにほかならない』と言ったのは埴谷雄高だが(「幻視の中の政治」・“権力について”)、この文章の「生活」を「文化」と置き換えたときに、そこには同じように“錯覚”が成立するのであって、そして“錯覚こそが政治のリアリズム”だとすれば、<政治と文化は別物>ということはありえないということになるのである。文化がどう思おうと、政治とはそういうものであり、そこから文化は逃れられないのだ。」

25. いま、メディア論に不在なのは、メディアの「政治学」である。 あるいは、「政治と文化の関係論」とか「メディア思想論」である。技術論やビジネス論、ユーザオリエンテッド論、コミュニケーション論は棄てるほどある。「思想では商売にならない」って?ご冗談でしょう。思想のないメディア論なんて・・・!

26. ハイビジョンだって、BS参入だって、地デジだって、僕はメディアの思想の問題としてやって来た、「テレビに何が可能か?」、あるいは「テレビがテレビであるために・・・」という。

27. 河尻プロジェクトとの関係でいえば、(繰り返すが)[クリエーション/制作するということ]の意図⇒創り手の想像力⇒観る側の<観たいモノ>へのアプローチ⇒表現=行為⇒コミュニケーション⇒公共性]という構図も、<行為としてのコミュニケーションと公共空間>という点で、メディアの政治学と文化論についての考察と無縁ではない。

28. それは、「平場」的行為として“Presented by ・・・・・・”に対する叛乱と通底する(はずだ)。

 

前川英樹(マエカワ ヒデキ)プロフィール
1964年TBS入社。TBS人生の前半はドラマなど番組制作。42歳のある日突然メディア企画開発部門に異動。ハイビジョン・BS・地デジというポスト アナログ地上波の「王道」(当時はいばらの道?)を歩く。誰もやってないことが色々出来て面白かった。その後、TBSメディア総研社長。2010年6月” 仕事”終了。でも、ソーシャル・ネットワーク時代のテレビ論への関心は持続している・・・つもり。で、「あやブロ」をとりあえずその<場>にしている。 「あやブロ」での通称?は“せんぱい”。プロフィール写真は40歳頃(30年程前だ)、ドラマのロケ現場。一番の趣味はスキー。ホームゲレンデは戸隠。

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