第1回「あやブロナイト」で語られたこと&語られなかったこと-せんぱい的とりまとめ-
(承前)
「メディア<論>体験」論その(2)である。
第1回で何が議論されたのかについての関心/感想は、参加者の問題意識で随分違うだろう。違って当たり前だ。ただ、「最後に何か」と言われて発言したことの要点はこんなものだった(・・・と思う)。そして、そこから派生的にいろんなことを考えた。
これも、前回の「あやブロ・“Presented by ・・・”vs“平場論”―何処にメディア変革の眼/芽があるか―」に書いたのと同様に、今年のメディア<論>体験としてノートしておこう。
1. 「視聴者/受け手の見たいモノ」を「ハイ、どうぞ」と差し出すことが制作ではない。何故ならば、視聴者/受け手は「自分が何を見たいか」を明示的には知らないからだ。「何が見たいか」はマーケティングだけでは分からない。「見たいモノ」とは、それを見たときに「ああ、こういうものを見たかったんだ」とか「そうか、こんな世界があったのか」と思うようなものなのである。それ故に、制作者の想像力が鍵なのであり、想像力は時代と向き合うなかで培われる。視聴者/受け手も、というより彼らこそ、時代の中で生きているのだから。
2. その上で、制作者たちが自分自身で「何に」関心を持ち、そして「<それ>を<どう>伝えたいか」と強く思わない限り<それ>は伝わらない。メッセージ性とは、何よりも制作者自身の思いがなければ成立しないし、意味付けや面白さも見えてこない。
3. 「あやブロナイト」第1回の論点の一つは「何のためにテレビは存在するか?」ということだったが、こう考えると「テレビは視聴者/受け手が“見たいであろう”モノが何か」についての制作者の<想像力行使の場>として存在するのである。
4. 言葉を変えれば、テレビジョンは視聴者/受け手の潜在的な想像力と制作者の想像力の交換(あるいは衝突)の場として存在する。
5. そして、そのような場として機能する限り、「10年後にテレビは存在するか」という次の論点の答えは、「Yes 存在する」ということになるのである。
6. 河尻さんのカンヌプロジェクトに参加したことと関係付けて言えば、制作者とそれを享受する者との間には、
[クリエーション/制作するということ]の意図⇒創り手の想像力⇒観る側の<観たいモノ>へのアプローチ⇒表現=行為⇒コミュニケーション⇒公共性]
という関係が円環的あるいは螺旋的に形成されるべきである。
7. かつて、テレビジョンは先行する映像メディアであった映画よりも水平的/開放的だと自らを規定したのだが、その水平性と開放性とは何だったのかを、ソーシャル時代の“今”においてこそ再検証すべきではなかろうか。
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